エッセイ

    スロービール(日本地ビール協会会長・小田良司)
   
 秋にベルギーに行った。

 ビールが好きな人に「ベルギーに行った」と言えば、必ず「いいですねえ。それはうらやましい」と答えが返ってくる。ベルギーとは、そういう国だ。何しろ、日本の常識では考えられないようなビールがごまんとある。

 例えば、口が曲がるほど酸っぱいビール、アルコール度数が十数パーセントもあるビール、二〇年も寝かせたビール、紹興酒のような味のビール、スパイス入りのビール、赤いビール、泡がたたないビールなどなど、書き出せばキリがない。

 そして、ベルギーにはカフェがある。コーヒーやお茶ではなく、ビールを飲む場所だ。そこで、人々は一杯のビールをゆっくりと飲みながら、おしゃべりしたり、通りを眺めたり、ただただ時間が過ぎるのを楽しんでいたりする。

 ボクはといえば、10日間という短い滞在期間の悲しさで、あのビールも飲みたい、このビールも飲みたい、そちらのビールはどんな味? と、せわしないったらなかった。けれど、何軒もカフェを回っているうちに、不思議と周囲の時間の感覚に馴染んでいった。

 そんなに焦ってビールを飲む必要はないじゃないか。いま、目の前にあるビールは、ビール職人がつくりあげた芸術品だ。ボクは、このビールに込められた職人の意気を受け取らねばならない。

 「ベルギービールは、スロービールである」

 実は、これはボクのセリフではなくて、同行したビアテイスターにして、ベルギービール研究家でもある田村功さんの言葉である。でも、いたく共感したので、ちょっと拝借。

 ベルギービールは、スロービールである。スローフードではなくて、スロービール。いい言葉だなあ。ボクはゆっくりとビールを楽しみ、出発前より、ずっと元気になって帰ってきた。

 さて、自宅。持ち帰った大量のビールの包みを開け、冷蔵庫に入れるべきものと、日の当たらない場所で寝かせるビールをより分ける。こんなに入るだろうか? と冷蔵庫を開けると、出発前から入っていた日本の地ビールが目に入った。

 そうか。今日は日本の地ビールを飲もう。十日ぶりに。

 シュポンと栓を開け、大きなグラスの三分の一の高さまで、ゆっくりと注ぐ。濃いアンバー色の液体の上に、真っ白な泡が盛り上がった。グラスを回して、立ち上る香りをかぐ。

 いいじゃないか。

 口に含むと、香ばしい麦芽の風味とともに、花のようなホップの香りが広がった。

 本当に、いい。

 スロービールは、ベルギーだけに存在するわけじゃない。日本でもいいビールがたくさん造られていることは、とうぜん熟知していたけれど、スロービールというキーワードを得て、ボクは少し目の前が明るくなったような気がした。

 日本の地ビールは、スロービールである。 そして、世界中の地ビールがスロービールである。

 ボクは、たった数百円のビール一本で、しばしの幸福を味わうことができる。(共同通信社発行「月刊健康」掲載)



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